接客の奥義は自由と個性なり

千利休について

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千利休の正体

利休坐像 長谷川等伯画 http://blogs.sapiens.cat/alarecercadesecretsllunyans/page/2/

利休坐像 長谷川等伯画
http://blogs.sapiens.cat/alarecercadesecretsllunyans/page/2/

一般的に茶人として知られている千利休。美の追究者であり、現代日本人の美に対する感覚の、礎を築いた人物。

しかしその横で、織田信長に重用されるため、信長に巨額(大量の鉄砲の火薬、馬鞍・馬鎧など)を投資する商売人でもあった。信長の没後は武家ではないただの町人の立場に関わらず、豊臣政権の内閣官房長官のような役割を果たし、政治家としての才能を発揮。多くの武将を豊臣政権に従わせると言う功績を残す、日本屈指の政治家でもあった。今で言うところの、最大手総合商社の二代目社長が、堂々と総理大臣の政策に口出しをしているようなものだ。

また、哲学者としての一面も強く、それが彼の美やもてなしの心を生み出すための大きな材料となっている。その哲学の深さたるや、茶道に修道し50年60年経った人でもやすやすとは理解出来ないほどであり、日本でも有数の哲学者として名を連ねる事ができるほどの人物でもある。

千利休の性格

茶碗と茶筅利休の性格は文献に残る彼のエピソードや功績から推し量るしか無いが、至って解りやすい性格の持ち主だと考えられる。

感情の起伏が激しく、他人にも自分にも極めて厳しい。何でも徹底しなくては気が済まないタイプと言える。政治家らしい腹黒さや、商売人らしいビジネスセンスにも卓越しており、大名を凌ぐほど、有数の資産家であった事は確実である。

激しい気性の持ち主で、ほんの僅かな事にも苛立ちを覚えたと考えられる。権力には一切物怖じせず、あの太閤秀吉をして「利休居士」、つまり天下のトップまでもが畏れ、敬称を付けて利休の名前を呼んだほどである。

曲がったことを嫌う頑固者で、そのわりに人に対して寛大なところがあった。何があっても挫けることがない意志の強さを持つ、忍耐力のある野心家で、情に脆い自信家でもある。協調性や決断力に長け、物事を俯瞰して見わたす事が出来るタイプだったと考えられる。

千利休の功績

筆者所持の信楽焼茶碗

筆者所持の信楽焼茶碗

哲学者でもある彼は、一休や孔子、キリシタンなどから多くの影響を受け、現代日本の「もてなし」や「平等の精神」の基礎を築き上げた。

美的センスは全世界でも指折りだと断言するに相応しく、日本の美的センスの価値観を覆しただけでなく、未だにそれを凌駕するものはいない。彼が完成させた「侘びの美」は現代日本の美的センスを根底から支え続けている。

もてなしの基本は利休七則に表現されている。

  • 茶は服の良きように点て
    意味 「何事も相手の立場、気持ちになって考える」
  • 炭は湯の沸くように置き
    意味 「何事も丁度良い配置や手順を考える」
  • 花は野にあるように
    意味 「何事も自然にある美しさを活かす」
  • 夏は涼しく冬暖かに
    意味 「何時も季節の移ろいを大切にせよ」
  • 刻限は早めに
    意味 「何時も約束の時刻より少し早めにせよ」
  • 降らずとも雨の用意
    意味 「何時もあらゆる準備を怠るな」
  • 相客に心せよ
    意味 「何事も周囲に対する気遣いを忘れるな」

これらの考え方は、今となっては当たり前だが、その当たり前を初めて人に諭したのが千利休その人だった。ユダヤ教系(キリスト教などを含む)の宗教では、「自分がされて嬉しい事を他人に施せ」と教え、孔子は「自分がされて嫌な事は人に施すな」と教えた。利休は七則を通じて、さらに一歩踏み込んで「相手がされて嬉しい事を人に施せ」と説いた。この価値観は現代日本にも引き継がれており、まさしく日本に生まれ、日本に育った日本人にしか理解出来ない、世界でも日本にしか無い考え方となった。

また、当たり前の話だが、「時間を守る」「納期は早めに」と言う考え方もまた、利休七則にある「刻限は早めに」がそのはじまりである。各種災害の時に「被害に遭っているのは自分だけではないから」と謙遜する姿が「日本的で美しい」と世界各国で絶賛されているが、この考え方もまた、利休の説いた七則に含まれる、「相客に心せよ」から生まれた風習である。自分よりも相手を立てる考え方も同様である上に、何よりもユーザビリティを重視する物づくりの考え方も利休由来だ。

つまり、全世界から賛美を浴びる「日本人らしさ」や「日本人の良いところ」の多くは、利休の哲学によって生み出されたものなのだ。

千利休と言う人物

著者の修士論文(裏千家茶道のマネジメント)より一部抜粋

戦国の世の中で、自国に対する軍需物資の供給は極めて重要でした。千利休の師範である武野紹鷗の生きた堺の町は、今で言うところの特別自治区のような扱いを受けており、日本国中に様々な軍需物資を送り出していた交易の町で、領主に支配されることなく極めて自由な空気を持っていました。そのため、大名にとって堺の町を自らの手中に収めることは、ある意味で日本国経済の大半を所領するほど大きな意味を持っていたのです。しかし、当時の大名達の政治的な能力は皆無に等しかったので、誰もこの堺を自らの物にしようとは思わず、唯一そこに目を付けたのが織田信長でした。

信長は堺を実効支配する横で、堺の町人達からの抵抗が強くては意味が無い。そこで信長は彼らの中で流行していた茶の湯の文化に着目し、一つの国策として取り上げました。つまり、茶道具の値段を釣り上げ、町人達の利益を増す事で彼らからの反感を限りなく低く抑えたのです。この茶の湯を国策として取り上げた事については、後に豊臣秀吉が「御茶湯御政道」と評し、それを引き継いでいます。

そんな堺に1522年、ある納屋衆の息子として与四郎と言う男児が生を受けました。この与四郎こそが、後に450年の茶道の礎を作ることになった千利休、こと千宗易でした。紹鷗には複数名の弟子がおり、その中でも極めて才覚を発揮していたのが千宗易、津田宗及、今井宗久の三名。この3名は茶の湯を国策として運用していた信長にも着目され、茶頭として器用されています。茶頭とは、今で言うところの宗教の教祖のような扱いだった。

茶の湯を国策として取り扱った信長の行いは、茶の湯にとっての外因による大変革となりました。それまでただの遊興に過ぎなかった一つの文化が、政治の道具にもなり、その価値を高め、武士や貴族達の間での地位を格段に向上させたのです。中には茶道具の為に国一国を失った大名もいるぐらいで、当時の大名達はそれほどまでに茶の湯に熱狂しました。短期間でここまで茶の湯を世の中に流行らせた者は他におらず、またそういった「文化活動」を政治に利用したと言うのも他に例を見ません。

信長が茶の湯を政治の道具としてどのように使ったかと言うと、まず彼は堺を実効支配する事で多くの町人達から様々な名物道具を、代わりに相応の金子を渡すなどしていたとは言え、半ば強制的に召し上げました。彼の手元にはそうやって多くの名物道具が集まっていき、それが彼自身の権威や財力を象徴するようになりました。そうした名物道具を見せるだけで彼にたなびき、畏怖する大名も出てきます。つまり武力を使わずして他の勢力を従わせることに成功したのです。それまでの大名達は武力に頼るしか領土拡大の手段を持っていなかったのだが、信長はここに茶道具を取り入れ外交の道具とすることで、はじめて平和的に領土拡大を行うことに成功したのです。

その名物道具を見極めるには、やはり目利きが重要となってきます。そこで活躍したのが、先に挙げた茶頭、こと千宗易、今井宗久、津田宗及の三名。その中でも宗易の目利き、茶の名人たるや群を抜いており、多くの武士や大名達は宗易に茶の師事を願い出ました。これをコントロールしたのもまた、信長だったのです。

信長は宗易に茶の湯の師事をしたがる武将達を抑え、自らが認めた者にしかその師事を許しませんでした。そういった政策により、利休に茶の師事をする事は多くの大名達にとって憧れとなり、自動的に利休、そして信長の権威を増すことが出来ました。また、信長は複数の茶の点前を学ぶことを禁じ、ごく一部の信長の側近と言えるぐらいの武将にしか全ての点前を学ぶことを許しませんでした。そんな側近のうちの一人が、後の豊臣秀吉こと羽柴秀吉。秀吉はどういった経緯があって利休と近付くことが出来たのかは明確にはなっていません。少なくとも信長の生前に利休と親交があり、茶の師事をしていた事ぐらいはわかっています。

本能寺の変により信長が死去、秀吉が天下を統一しました。その時に秀吉が取った政策もまた、茶を政治利用すると言うものでした。この政策を秀吉は、信長への敬愛の念も込めて「御茶湯御政道」と呼びました。そのルールは信長のそれを更にレベルアップさせたもの。秀吉はそれまで三名だった茶頭を一名に絞り、その座に宗易を据えました。また、宗易の権威を限界まで引き上げることを目的とし、正親町天皇の禁中茶会に奉仕させました。無論、町人の身分では禁裏に入れないので、禁中茶会に出席するために居士号が正親町天皇より直賜されました。その居士号こそが、「利休」です。利休の名は天下に轟きました。何せ利休と秀吉の両名ともに、町人の身分から天皇謁見を許される立場へとのし上がっていった、下克上の極みだったからです。

年齢にして60歳前後時点から利休の動きは急激に活発になっていて、現在まで残されている様々な利休による作意のほとんどが、それ以降の時期に生み出されたものばかりです。利休の台頭により、全国の大名達の点前はほぼ統一されました。利休の起こした茶の湯の変革は、町人でありながら全国各地の大名を自らの弟子につけ、全国的にバラバラだった点前のスタイルを一つにまとめ、茶人のあるべき心構えやスタイルを統一し、そして何と言っても茶の湯そのものを体系化した事にあります。60歳を過ぎた時点から急激にそのような動きを取るようになったのには、いくつかの理由があります。

一つは信長の死去でした。利休は1522年に生まれ、1591年に69歳でその生涯を終えています。一方の信長は1534年に生まれ1582年に本能寺で死亡している事から、つまり利休が丁度60歳の時に信長は焼き討ちにあった、と言うことになります。信長は自分の好みに大変厳しい人であった事が知られており、それに僅かでも刃向かう者は容赦なく刑罰を与えられていました。それ故にさしもの利休といえど、好き勝手な事が出来なかったのは間違いないでしょう。それに対して天下を引き継いだ秀吉が利休の価値観を尊重し、基準としたことで、利休は自らの才能を好き放題発揮出来るようになったのです。

もう一つの理由は、やはりナンバー1の茶頭として秀吉に担がれたこと。信長の生前は目立った動きこそしていないものの、利休は密かにかなりのレベルまで侘茶を完成させており、信長の死によって利休は自らの侘茶の世界観を一気に花開かせることができるようになりまし。秀吉からの資金援助が莫大だったこと、そして自分が目利きした道具が高額で取引される事で、多くの利益が手元に入ってきたので資金的な余裕が生まれたのです。

信長の死と資金的余裕、これら二つの理由から齢60の、当時としてはかなりの高齢者だった利休は茶の湯に大きな影響を与えました。利休が「名物だ」と言えば何もかもが名物になってしまう状態でした。戦国の世が一旦終わりを告げ、平和を取り戻しかけた世の中と言う強烈な環境変化において、このようなリーダーシップは極めて重要かつ大きな影響力を持っていたのでしょう。

実はこの当時、もう一つ大きな変化が世の中に見られます。それは、太閤秀吉による太閤検地(1582年)や刀狩り(1588年)に端を発する身分制度の本格的な確立でした。それが起こったことにより、茶の湯の世界にも大きな影響が与えられることになります。それは、武士の茶と町人の茶を棲み分けると言う考え方でした。特に刀狩り以降の秀吉の考えは強硬になっていき、ついには1591年に「茶に身分は関係無い」とする利休と袂を分かち、彼に切腹を命じています。

利休の「茶に身分は関係無い」とする考え方を、彼は「貴賤平等」と言う言葉で表現しました。もてなす側の主人ともてなされる側の客人の関係を「茶室の中では対等の立場である」と定義したのがこの言葉の意味です。秀吉の確立しようとする身分制度に反抗しようとするかの如く、この考え方は茶の世界で広まりを見せることになりました。そしてその考えは現代にも引き継がれています。例えば何らかのお店に行ったとして、全ての客は平等に扱われます。購入金額の大小に関わらず平等な接客を受けられる国は、日本しかありません。また、そのような考え方をするのもまた日本ならではです。利休の「貴賤平等」の精神は現代に受け継がれる、茶の湯最大の功績と言うことが出来るでしょう。

話は少し逸れますが、日本国にはチップと言う概念がほとんど見られません。海外ではチップが無ければ最低限のサービスすら受けることが出来ない場合が極めて多く、日本のようにほぼ完全なチップレスでこれほどの親切丁寧なもてなし(サービス)を無償で受けることが出来る国は、世界的に見てもほとんど存在しません。それが現在世界的な評価を受け始めている言うことは、つまり利休が430年前に生み出したこの考え方は極めて優れていた、と言うことでしょう。

閑話休題、身分制度が生まれた時代だったからこそ、利休は貴賤平等や主客同一と言う哲学を茶の湯にもたらしたと言えます。利休最大の貢献はまさにここにある、と筆者は考えています。茶室には刀置きと呼ばれる設備がその外側に設けられていて、武士であろうが大名であろうが関係無く、茶室に入るときの帯刀を許さないのは利休が考えついた工夫でした。もてなし、もてなされる空間に刀は必要無く、刀があってはむしろ貴賤に平等を生み出すことが出来ないと言う考えに基づいているのでしょう。

その身分差を正す心構えは、一つの有名なエピソードでも語り継がれています。友人である町人を招いて茶会を催していた利休の元に、とある大名が訪れました。刀置きに刀を預けて茶室に入った大名に向かって利休は、今日の主客はこの友人であるために、その隣に坐るようにすすめたのです。通常ならば大名が圧倒的に上の立場なので大名が主客の座に行くべきですが、利休はそれを否定しました。そして大名も利休に心酔しきっていたので、素直にそれに従ったと言います。

大名だろうが町人だろうが関係無く、刀置きに刀を預けたあと、躙口と言う小さな戸口から茶室に入るのが利休の茶のルールでした。いかに偉い人であっても、一旦頭を下げなくてはこの戸口をくぐることは出来ず、つまり茶室に入る人が自らの謙遜の気持ちを示さなくては茶室にはいることができない、と言う精神を形にしたものです。また、利休の茶の湯はよく「無駄や無用を徹底的にそぎ落とした最終形」と言われます。身分や刀などは、利休に言わせると無駄だったのでしょう。最高の茶を点て、最高の客としてその茶を飲むためには、茶と点前に集中する以外何ら必要な事はなく、そこに身分の違いなどを意識してはならない、これこそが利休の真髄だと言えます。

身分制度を確立しようとした秀吉も、一時はその貴賤平等の考え方に迎合し、それを政治利用しています。それが有名な北野大茶会として知られる、北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)。全国各地から茶人を募集し、心得のある者は武士・町人・農民問わず、小さな道具一つで良いのでそれを持参し茶を点てよ、と言うのがこの北野大茶湯でした。

本来ならば茶の心得があり町で有力者となっている町人や、もしくは武士、大名が対象になるべきこのような催し物を、敢えて百姓の参加も許可としているところは正に利休の貴賤平等の考え方に即しています。実際にどのような客が訪れたのかは一部を除き不明ですが、秀吉にこのような考えを思いつかせることが出来たのは利休ならでは、でしょう。

また、丿貫が参加しているのもまた、この茶会の見所です。彼は極めつけの侘茶人として知られており、生活は清貧の極み、農民の一人として生きていました。そんな丿貫がこの茶会に持ち込んだのが、最低限の道具と茣蓙敷き、そして赤い大傘一つだったと言うのが知られています。秀吉はその趣向に痛く感動しており、その点前のスタイルは現在の野点にも引き継がれています。

このように、利休は茶の湯の世界に強大な変化をもたらしました。今でこそ「それがどうした」と言えるような平等の精神であっても、当時の人々からするといかばかりだったのでしょう。秀吉としては大した意識は無かったかも知れませんが、民衆の気持ちになってみれば、茶の湯に貧富や貴賎の差は関係無いと言うことが見事に伝わっていますし、それを体現してもいます。つまり、茶の湯自体に全国的な変化を促したのがこの北野大茶湯だったのです。

そして1591年、利休は秀吉の怒りを買い、切腹を命じられてしまいます。具体的にどのようないきさつで、何が決定打になったのかは諸説溢れるためここでは言及しませんが、いずれにせよ彼は飽くまでも町人の身分、そして在家の修験者であるにも関わらず、切腹と言う処置がとられています。民間人で切腹を仰せつかったのは歴史上、多分彼だけではないでしょうか。他の罪人は皆、市中引き回しや単なる打ち首、獄門がせいぜいです。本来切腹は武士にあたえられる賜死、すなわち自害は自害でも名誉あるもののはずであり、町人がそれを許されることは有り得ません。秀吉にとっても、それほどまでに利休の存在は大きかったのでしょう。事実、切腹を命じられると言うことは家が断絶されるものだが、利休の死後3年が経過してから秀吉は千家の断絶を撤回、利休所持だった道具をほとんど千家に変換し、利休の名誉を回復しています。とは言え、いったんは断絶された家柄。武家に恨みを持つべきその家の主人、こと利休の息子少庵は出仕を嫌いました。その影響は少庵の息子、宗旦にも引き継がれており、家元制度確立に大変大きな影響を与えています。

Wikipediaによる生い立ちの解説

和泉国・堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。家業は納屋衆(倉庫業)。父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母の法名は月岑(げっしん)妙珎、妹は宗円(茶道久田流へ続く)。若年より茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われた。

本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕えた。天正13年(1585年)10月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。天正15年(1587年)の北野大茶会を主管し、一時は秀吉の重い信任を受けた。また黄金の茶室の設計などを行う一方、草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花入の使用をはじめるなど、わび茶の完成へと向かっていく。秀吉の聚楽城内に屋敷を構え聚楽第の築庭にも関わり、禄も3千石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。秀吉の政事にも大きく関わっており、大友宗麟は大坂城を訪れた際に豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と耳打ちされた。

利休、辞世の句

利休、辞世の句 表千家不審庵所蔵           元画像:http://kizuna-maboroshi.doorblog.jp/archives/25351812.html

天正19年(1591年)、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられる。前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年70。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。死後、利休の首は一条戻橋で梟首された。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという。

利休が死の前日に作ったとされる辞世の句(遺偈)が残っている。

人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 提ル我得具足の一ッ太刀 今此時ぞ天に抛

読み じんせいしちじゅう りきいきとつ わがこのほうけん そぶつともにころす ひっさぐる わがえぐそくのひとたち いまこのときぞ てんになげうつ
意味 人生70年、えいっやあっとおっ!俺のこの宝剣で先祖も仏も皆殺しだ!俺の得意の武器をひっさげて、今この時こそ自らを天になげうってやる!

利休忌は現在、3月27日および3月28日に大徳寺で行われている。

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茶人(ちゃびと)

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